ダダイズムとシュルレアリスムにおける【コラージュ】の在り方

 

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ダダイズムという1910年代から世界で

同時多発的に沸き起こった芸術運動は

(既成のものに対する否定・破壊)

シュルレアリスムとかキュピズムとか

そのあたりの原点になっているわけだけど、

今回はシュルレアリスムダダイズムの共通項でもある

コラージュのあり方とその違い。

そして普段、自分が作っているコラージュとの

差異について述べていく。

 

その話がすっと入るために

ダダイズムシュルレアリスムとは何か。

その手法について書く。

 

今回のテキストはこちらになります。 

 

シュルレアリスムとは何か (ちくま学芸文庫)

シュルレアリスムとは何か (ちくま学芸文庫)

 

 

 

ダダイズム――世界をつなぐ芸術運動 (岩波現代全書)

ダダイズム――世界をつなぐ芸術運動 (岩波現代全書)

  • 作者:塚原 史
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2018/02/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

 

 

 

ざっくりざっくり解説する。

ダダイズムは1910年代の第一次世界大戦を受けて

トリスタン・ツァラを筆頭に既存の常識・秩序を否定しようとする芸術運動。

(芸術運動というと絵画とか彫刻とかをイメージするかもしれないが

ダダイズムの始まりは詩(ポエジー)である)

 

考え方だけ見ると、暴力的な思想の持ち主というように見えるが、

第一次世界大戦という混沌の時代に生まれたという点を

見落としてはいけない。

 

ダダイズムの特徴としてのキーワードは

偶然 と レディメイド

今回重要なのは偶然の方。

詩(ポエジー)で言えば「言葉の意味の連鎖を断ち切る」

とか「黒人詩の意味を無視して語感だけを取り込む」とか

言葉そのものの意味を無視してみた。ということである。

※ここはわからなくて大丈夫、実際の詩もわっけわかんないから。

 

 

そしてコラージュでいうなれば、

ちぎった紙を上から落として

着地したところに糊付けする。

これは偶然性を求めるという点がわかりやすい手法である。

 

既存のものへの否定・破壊というのがダダイズムだから

つまりは意味の破壊=無意味というところを

覚えておいて欲しい。

 

 

 

次にシュルレアリスム。(通称:シュール)

これはダダイズムから派生していった芸術思想。

シュルレアリスムを文字で分解すると

シュル レアル イスム

超   現実  主義

和訳すると超現実主義というわけである。

この本を読むまでわからなかったけど、

なので普段「シュールだね」とか言っているのは

国語的には間違っている。「超だね!」ってなんだ。

「シュルレアルだね」というのが正解。

(シュール・レアリズムも間違い)

 

 

じゃあ超現実主義って何か。

言ってしまえば現実を超見つめた先を求めること。

でもダリとかキリコとかの絵って

わっけわかんない幻想的な絵が多い。

そういう意味わかんなさ・不思議さを捉えて

「シュールだね」と今まで言ってきたわけだけど

それがどうして超現実主義?となっちゃって

わけわかんなくなってくる。

 

 

ここから大事

 

シュルレアリスム的には

シュルレアリスムに代表される絵画のような世界

(あえて言っちゃえばシュールな世界)は、

現実とは全く別の空間・世界にあるのではなく、

現実の奥に隠されていると考えている。

 

Aが現実世界 幻想的な世界がB

もう別物、どうやってもいけない。

ではなく!

Aが現実世界 幻想的な世界はA´

 

という考え方。なので現実を離れていない。

現実離れした絵に見えるけれど、それは現実を

とことん見つめた結果ああなってる。

 

そしてそれ、つまり超現実は

無意識(≒夢)の中に存在するんだ。

それが芸術的なんだというのがシュルレアリスム

 

 

次に手法。キーワードは

ディペイズマンと自動手記

(自動手記については今度じっくり書くから今回は省略)

 

ディペイズマンはフランス語で「異なった環境に置くこと」

これはとてもわかりやすい。

マグリットの絵画なんかとてもわかりやすい。

空に人が浮かんでたり、リンゴがやたらデカかったり。

 

コラージュもまさにそういうところがある。

なぜここに?なぜこんなに大きいの?

そういう感覚を含ませて作ることが多い。

 

(なんでそれが超現実主義なの?と思った方は

30行くらい記事を遡ってみよう)

 

「無意識に描く・作る」わけではないのが難しいところ。

(サルバドール・ダリはタコに絵の具を塗って筆代わりにして

無意識な、というかタコの意識に任せたような絵画を試みたこともあるが)

無意識的なイメージを表現する。

 

 

疲れてきた?本題入りますね。

 

 

iPad Pro買ってからコラージュ作業が

サクサクできるようになったのもあって

「よっしゃ、ここはちょいとブログも一新して

コラージュも毎回作っちゃるぜ」

 

と思ったはいいものの、

今年に入ってこの本2冊を読んで

ダダイズムシュルレアリスムのあり方を勉強して、

(キュピズム・構成主義も掘り下げるべきではあるんだけど)

コラージュの源流に立ち戻ってみると

 

「あ、今までの作ったコラージュは

意識的で意味性が強いものばかりだな…てことは

これはシュルレアリスムでもダダイズムでもないな」

と1人気づいてしまったわけだ。

本当1人で何やってんだかって感じなんだけど。

 

「ディペイズマン」ではあるんだけど、

無意識ではない。意識的。スタンスとして

コラージュの在り方が間違っている。

コラージュ/サンプリングをライフワークとする

私からするとこれは由々しき事態。

いかに偶然/無意味な無意識を表現できるか。

ただデジタルでやるコラージュ/サンプリングに

ダダイズムのような偶然性をどう出せば良いのやら。

もうそこから広げて言えば

current dadaism(現代のダダイズム)はどうあるべきか。

 

そこを言及せずしてこのブログは成り立たなくなってきた。

ブログってそもそも起こったこと/過去を書くものだけど、

今回はとても進行形な記事ができている。

そしてとても実験的になりつつある。

 

 

 

 

 

これからどうなるのかって俺が知りたいわ。