「ナマで踊ろう」から膨らませるナマの魅力

 

 

坂本慎太郎の手がけた曲のタイトルは

否が応でも反応してしまうものが多くある。

タイトルに含みがあるのだ。

つい前後の文脈を考えてしまう。

「なんで?」「何が?」「何を?」と。

曲はやはり聞かれないと意味がないので、

そう思わせた時点でタイトルとして勝ちだ。

 

ゆらゆら帝国で言えば

「空洞です」

 

 

なにが?

 

 

「あえて抵抗しない」

 

 

なにがあったの?

 

 

 

「グレープフルーツちょうだい」

 

 

これ言うタイミングそうそうなくない?

 

ソロになってからもとどまるところを知らない

「まともがわからない」

 

なにがあったの?

 

 

 

「ディスコって」

 

 

……え?

 

 

 

「死にませんが?」

 

 

 

 

え?ああ、そうだよね?

 

 

 

 

そして今回取り上げるのは彼のソロ作品の中の1曲

「ナマで踊ろう」である。これもまた香ばしいタイトルである。

 

 

 

歌詞聴けばすぐわかるんだけど、

ここにおける「ナマ」とは生音・生身という意味がある。

 

ナマのコンガで踊ろう

ナマのステップを刻もう

ナマ身とナマ身で揺れよう 永久に

 

 

 

YouTubeでライブ見てないで現場に来て一緒に踊ろうよ

みたいなことなのか?真意はわからないが

「ナマで」と言われるとやっぱり18歳超えた辺り人類は

みんなビクンビクンしちゃうのはもうSAGA。

 

他にもどんな「ナマ」があるか考えてみる。

ナマ肉 ナマ魚 ナマ野菜 ナマレバー ナマ牡蠣

ナマ肉は基本食べれないからこそ

たまに高級なレストランでそういうの

出してるとゾクゾクする。馬肉のユッケもいいよね。

あと生ハムね。ワインバル行くとみんな頼むよね。

 

ナマクリーム

 

いいよね。焼きクリームよりいい。

焼きクリームって何?

 

 

ナマ中継 ナマ放送

 

これも独特のスリルがある。

個人的にはそんなに好きじゃない。

むしろ的確に編集してほしい。

でもMステやら紅白やらがずっとナマ放送でやってるのは

少なからずナマの魅力が強いからなのだろう。

 

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あとあれね。

 

「ナマで出す」

 

私はもう絶対やりたくないんだけど

世の中にはそこにロマンを感じる男性が

想像を絶するほどに多い。

怖いのがそこに結婚や出産への希望を特に

含めてないという点だ。

 

しかしながら、悪魔的な魅力があるのは事実だ。

みんなも声に出して言ってみよう。

 

「ナマで出す」

 

コンドームをつけずにナマで出す

 

このレバーは新鮮なのでナマで出す

 

この写真はよく撮れてるので加工・編集せずにナマで出す

 

俺は無骨なベーシスト、エフェクターは噛ませないでそのままナマで出す

 

 

もうわかったと思うけど、「ナマ」には

むき出し、ありのままといったような

野生的・開放的なイメージがある。

 

 

 

 

対義語も考えてみる。ナマの対義語ってなんだろう。

一番色々な意味を包括しているのは「加工」だと思う。

コンドームをつけることを「加工」と呼ぶのは若干無理矢理だけど

「付け加える」みたいなことだから、いいよね。

 

「フィジカル」「リアル」「アクチュアル」

「ナマ」を英語で考えてみるとこの辺だろうか。

じゃあ対義語は「バーチャル」?

 

仮想 妄想 空想 実際にはない データ オンライン

 

 

ナマと対をなすワードがコロコロと出てきた。

インターネットとナマってのは

どうにも相容れないんじゃないか。

 

よくよく考えたら生放送も別にテレビで見てたら

ナマじゃなくね?ナマってのは撮影現場に居合わせてる人々が

本当の意味でのナマなんだろうな。

 

 

じゃあインターネットにおいてナマってないのか?

いやそんなことはない。こと文字において

人が人に伝えようと書き起こした言葉は

それが手紙でもメールでもナマなんじゃないか?

 

いやちょっと待て

手紙の暖かさってあるだろ。肉筆の文字でしか感じ取れない

想いって確実にあるだろ。そういうのが文字における

ナマなんじゃないか?

 

確かに

でも私は…いや俺は

オンラインで、特にツイッター

誰かの言葉にあふれ出てきたかのような

強い意志を感じ取ることがある。

そういうのは読んだ瞬間にわかるし、

それは時たま正しい国語を超越している瞬間がある。

それはまさしくナマである。インターネットにおけるナマだ。

 

ツイッターは特にそういうナマい発言が時たま現れる。

むき出しの、本音の言葉である。

それは逆に推敲を重ねる本や手紙の文面からは

汲み取れないものかもしれない。

編集なし 忖度なし 推敲なし

出てきた順に言葉を殴りつける。

それが全てではないが、本質を捉えていることもある。

 

そういうナマのエネルギーは、

ネットでもきっと実在するし、そういうものを作っていきたい。

 

 

こんな過激な展開になるとは思わなかった。

このブログも、一定の話の展開を見据えつつも

書いてるうちに予想しない方向へ転がることが多々有る。

 

 

もうわかったと思うけど、「ナマ」には

むき出し、ありのままといったような

野生的・開放的なイメージがある。

 

 

 この辺までは書くイメージでいたけど

以降は割とインプロビゼーションだ。

フリージャズだ。トークライブだ。自由行動だ。

 

 

だからこそ、できるだけナマで出すし、ナマで出せ。

コンドームはつけるけど。